東京バーベキュー ~歩くひと、佇むひと~
そんなこんなでようやく(笑)、立石様に到着。時刻はたぶん午後2時すぎ(←「たぶん」としか書けないところが、いきあにもこのまちあるきだ)。運良く天候はもっている。さっそく弁当をひろげるわたしたち。
それにしても、この無造作な配置はどうよ?、ていうか、神々しさとか神聖さとか神秘的とかじゃない、どちらかというと古代文明の遺跡みたいな唐突さが気に入ってるんだけどね。この写真も、アプローチの石の面、右手のシーソー、立石様の鳥居のボリューム感がモノの見事にバラバラで、パーツをコラージュした合成写真みたい。一応、スケール確認に役立ちそうな写真も載せておこう。
スケール確認用
↓
これは立石様に面するお家。唐突で不思議なパースペクティブを思う存分眺められる。
今回のガイド役のおひとりは、この家を考えた建築家だったりする。
これはおまけ。木の蓋がいいかなと。
この日の最初の見学スポットはこれ。
というか、駅構内。下り線プラットフォームに逆戻り。
んっ?、植栽?
この物体が一体何なのか、なぜこれが見学スポットなのかについては、今回のガイド役ふっきー氏のブログ「立石まち歩き1~駅の中の立石さま~」を見ていただくのがよいと思う。流石だぜ俺の立石!。ちなみに、ホンモノの立石さまはこういうふうになってます。
そんなわけで、原立石人による立石の魂の叫びに触れてまちあるきはスタートしたのでありました。えっと、で、わたしの感想?、わたしは「駅の中の立石さま」を見て、「そうだ床屋に行かなきゃ...」と思ったのでありました。
《WEBでちょっと調べてみる》
さてこの植栽が立石さまなのだという唯一のアイデンティティは、背後に立ってる看板だろうと思われる。なので、ここからツッコミ入れてくと何が見えてくるのか、突き進んでみよう。
まず「立石様」だけどwikipediaによると、
1.「立石」は全国に存在する。
2.「立石」は巨大な石だ。
3.「立石」の「立石様」は房州石で出来ている。
というのが客観的事実としてある。そこから類推して、「古代の官道(東海道)の道標」ということになってる。
看板の絵は江戸時代の書籍からの引用だ。引用元の「江戸名所図会」はwikipediaなどみると、江戸中後期のるるぶ、地球の歩き方のようなものだったと思われる。ちくまから文庫本が出てたけど絶版。次にネットで調べてみると...、ちゃんとありましたよ。立石村立石、近代デジタルライブラリー(国会図書館)のコンテンツ。さらに調べてみると、「わたし彩(いろ)の『江戸名所図会』~大人の塗り絵」なるブログも見つけた。こっちは、墨一色の元絵に色をつけて公開してる。
さてと、ここから本番。
江戸名所図会は全7巻20冊なのだけど、この立石村立石ってのは、第19冊の46/59で登場する。『日本橋から始まり、江戸の各町について由来や名所案内を記し、近郊の武蔵野、川崎、大宮、船橋などにも筆が及んで』る20冊のうちの19冊目ということで、当時の立石の郊外具合が推察できるというものだ。つまりは、かなりのローカル線の旅だということ。(←これが一点目)
次に、立石村立石の前後に何が出てくるかを調べてみる。るるぶや地球の歩き方的読まれ方をした書籍だとすると、善後に何が出てくる絵図とパッケージで読みとくのが当然だし。
で、結果は、こういう順番。
第20冊(2/56):新宿渡口
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第19冊(46/54):立石村 立石
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第19冊(45/54):立石 南蔵院 熊野祠
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第19冊(36/54):木下薬師堂(浄光寺)←(33/54)渋江←(31/54)葛西
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第19冊(43/54):平井 聖天宮(灯明寺)
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第19冊(42/54):釣鱚(逆井の渡し付近)
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第19冊(41/54):中川口(船番所)
次に、これをGoogle Mapに落とし込んでみると...
大きな地図で見る
これ見ると、立石って完全にさ、中川を巡る小旅行コースなのよ。
これって、俺にはかなり新鮮な発見。
立石様は「道標(みちしるべ)」っていうけど、江戸時代にはその道は川のことだったんじゃないか?
このあたりは、もともと低地で半分湿地みたいなところだった。もとはグチャグチャでズボズボな場所だったのよ。江戸幕府は、排水路つくって水はけよくして、上流から用水路引っ張ってきてフレッシュな水を確保して、グチャグチャズボズボを畑や田んぼとして開発していったわけ。江戸の食糧はそういうふうに確保されてた。それでも、依然、川は重要で物流は中川に頼ったんじゃないかしらん。
江戸から小名木川を東へ進んで、江戸市中のどんずまりまで行くと、そこに中川の番所がある。いまのイミグレとか税関だね、番所ってのはさ。ボーダーよ。そこから先は市外で、郊外の小旅行ということになる。で、使うのは当然、舟ということになる。中川は、幾重にも曲りくねって蛇か龍そのものだね。雨が降れば蛇も龍も暴れる。それでも陸でも水でもないグチャグチャズボズボを行くよりはるかにマシだ。
中川という蛇(龍)づたいに図会を頼りに名所を進んで行くと、少しだけ小高い、少しだけ安定してるように見える土地が見えてくる。そこが立石だ。そこからなら川から陸へ上がれる。青戸とか奥戸の「戸」には、水面から陸へのドアという意味がある。そういう目印だから立石。
(蛇足だけど、江戸~明治の土地利用図をみると、立石様の辺りは畑作だった。中川の両岸に出来た自然堤防は畑作、それ以外の低地は稲作というのが、標準的な土地利用みたいなんだけど、立石様近辺は、周囲より畑作地の面積が大きい。これは、土地が安定してるってことだと思う。)
立石仲見世は浅草発祥らしいんだけど、立石自体が浅草と似てるなあと思う。浅草にも小高い山があって待乳山と呼ばれてる。待乳山の由来は「真土(まつち)山」で、頂上には待乳山聖天が祭ってある。近くの土地は「花川戸」とか「今戸」と呼ばれてる。
立石様(巨大な石)~立石~青戸・奥戸。
待乳山聖天~真土山~花川戸・今戸。
グチャグチャズボズボの中に残された、数少ない安定した土地。立石の立石様は地面に潜っていてどこまで大きいのかわからない。わからないほど大きな岩が地面に潜んでるってのは、グチャグチャズボズボの土地では畏敬の対象になると思う。
ふっきー氏のブログ「東立石の水神さまの歴史」に、中川の水面佇む鳥居の写真が載っていて、とても興味深いわけで、一度その場所に行ってみたいと思ってる。鳥居のしめ縄の意味について、「蛇か龍じゃないの?」とコメントしたのだけど、立石様含めて、陸と水のインターフェィスとして考えた方が面白いように思えてきた。房州産の石ってのも、水運で運んだに違いないしね。
小さい鳥居ともっと小さな鳥居があって、やけにパースペクティブが強調されてる。二つの鳥居をつなぐ痕跡。地面を囲ってあって、その真ん中から岩のようなものが少しだけ顔を出してる。
道標だったと思われるものが信仰の対象というのも面白いけど、なんか小さめの雑居な公園という風情がすごい興味ひかれた。アニメに出て来る土管が横たわってる原っぱ、なんだか知らんけど、あれ、思い出しちゃった。
俺が子供だったら、遊具より立石様のアバンギャルドさに魅力感じるよな。立石様に入り込んじゃう遊びとか、入ったら大人に怒られるとか、そういうことの繰り返し。立石の町の子供はそういうことはしないんだろうか?
大人だって、これ有り難がって、もってちゃう人いたんだろうな。
《WEBでちょっと調べてみる》
Wikipediaの解説はこれ。
東京都葛飾区立石八丁目37番17号にある。現在は児童公園に併設する祠の中心に鎮座している。付近にかつて古墳があったことやその材質(房州石という凝灰石の一種)から、古墳の石室などと同様千葉県鋸山付近より同地に持ち込まれたと推定されている。また、奈良・平安時代には立石付近を横断していた古代の官道(東海道)の道標として転用されていたと考えられている。
江戸時代には高さ60センチ以上あり、「根有り石」とも呼ばれていた。名所として諸本(兎園小説、明細帳、江戸名所図会など)にも登場し、立石様の根を掘ったことで災いが起きたなどの伝説を生んでいる。
後に、立石様を欠いて持つと病気に効くという信仰や日清・日露戦争時に弾よけのお守りとして欠いて持つ人が現れたことや地盤沈下などの結果、現在では地表より数センチ程度の高さしかない状況である。
他に、「葛飾の魅力 探求」がかなり詳しく突っ込んでる。さらに調べてみたら、立石遺跡現地説明会(1、2、3)なんてのまであった。やっぱ、WEBすげえ!