東京バーベキュー ~歩くひと、佇むひと~

ブリキのバケツ、美しいとしかいいようのないほど見事に錆びたフタ。
コンクリートの箱は防火用水だろうか。
もう角にはひびが入ってる。
空襲日記 | 防火用水
近所を歩いていると、時々、古いコンクリート製の防火用水槽が道端に置かれているのを目にする。下町では路地に入ると家々の前は大小の鉢植えでいっぱいだが、その中で大型の植木鉢として代用されていることも多い。あるいは、単にうち捨てられたようにポツンと塀際に置かれていることもある。
自分の住む町にも「防火用水」はあった。町のいろんなところで普通に置いてある代物だった。小さい時に見た防火用水の水は、いつも透き通っていだけど、小学校に入る頃に見たそれの水は緑色を帯びて、ボウフラがわたりしてた。やがて、防火用水は町の中から消えてしまった。いったいどこに消えてしまったのだろう。

お寺の一角。これも消防用の水置きだろうか。中には水が溜まっていてゴミや落ち葉避けの網が被せてある。「奉納 向島請地町」とある。
八広の爺ちゃん
向島というのは、元々隅田川の西岸浅草側から、旧名である牛島・寺島・隅田・請地(うけじ)・須崎(すさき)・柳島などを指して「川向こう」といい、「むこうの島」「むこう島」と、呼んでいたものが一般に用いられることでできました。その初見は定かではありませんが、江戸時代のはじめといわれています。ただし、この時は呼称として用いられていました。
向島という語が町の名前として登場するのは、明治24年(1891)以降のことです。その時つけられた向島とつく町名は、向島請地町・向島押上町・向島小梅町・向島須崎町・向島中ノ郷(なかのごう)町でした。
その後、向島請地町は昭和39年(というから東京オリンピックの年にあたる)に周辺の町とともに、現在の向島1~5丁目となる。請地とは珍しい町名で、鳩の街の身請かなにかかしらんと思ってみたら、ここに答えがあった。木村荘八の「女性三代」にこんな記述があるのだろいう。
N的画譚 浮地 玉ノ井
それによると「請地」とは「浮地」のことで、つまりは埋め立て地という意味合いなのだそうだ。特にこの玉ノ井辺りもやはりその「浮地」であり、塵芥の上に無秩序に家を建てたらしい。その地盤の悪さは言うに及ばず、墨東綺譚に出てくるあの溝川はすぐ水が溢れてしまうのだった。墨東綺譚本文にも、「ここはもともと埋地で、碌に地揚げもしないんだから」と、お雪の抱え主が語る場面が出てくる。
突然、子供の頃の記憶に引き戻される。まだ小学生だったと思う。遠くの町からチャリンコでこの辺りまでやってきて、町をメチャメチャなスピードで走りまくった。そうやって何も考えずに一目散に走り抜けると、一体自分がどこにいるのかどちらを向いているのか見失い、路地の中で途方にくれる。このまま家に帰れないと想像し、キンタマが縮み上がる。その喪失感がたまらなくて、なんどもなんども全力で駆け抜けたのだった。金魚が泳ぐ防火用水はそんな町から脱出するときの道標であった。たしか、あの角を曲がった先の防火用水で金魚が泳いでいるはすだ。そんなふうに町を確かめるのだった。

これは路地尊という。下の写真、こっちは天水尊と書いてある。

路地尊については、「墨田区公式ウェブサイト」の説明が分かりやすい。要は、雨樋を流れる雨水を地面下のタンクに貯めて、いざというとき防災用水に使おうというもの。雨水タンクの半額が区から補助されるという、墨田区の防災対策のひとつ。「助成実績」の小規模貯留槽というのが該当するのだろうか、だとすると、平成7年から今までで200台くらい設置されてる。「特定非営利法人 雨水市民の会」には(一部だろうか)設置マップが載っている。また、この地域全体の取組みは「一寺言問ー防災のまちづくり」が詳しい。
天水尊はだれが制作してるんだろうと興味を持ち調べてみたら、「雨水利用事業者の会」というのがあった。全てを地元墨田の町工場で請け負っているのかと思ったら、そういうわけでもなくて、近県にまたがってる。すでに、防災まちづくり活動を越えた産業となっているみたいなのだ。これは面白い。
と同時に、自分としてはコンクリートの防火用水も復刻してくれないかしらん、などと思うのだった。
《参考になるWebsite》
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