東京バーベキュー ~歩くひと、佇むひと~

形而上学的落書き。
山谷にも田園調布にも等しく朝はやってくる。
唯一の救いでもあり、残酷でもある。
一泊した次の朝、玉姫公園の近くで撮った。
「江戸時代の木賃宿→簡易宿泊所」の流れは単純化しすぎではないか、それでは、大正元年浅草地図の原っぱの意味が、城北福祉センターに昭和59年年まで存在した託児室の意味が、さらに、ふっきー氏がエントリのタイトルにした「山谷の朝に葛飾とのつながりを思う」の『つながり』の意味が見えなくなるんではないかと書いたことのつづき。
太平洋戦争後、被災者が上野周辺に集まり、山谷に簡易宿泊施設が作られるところから現代山谷の歴史は始まった。
NAPH 山谷
人が集まるところから復興は始まる。山谷に集っていた被災者達は、復興時の労働需要に大きく貢献した。それは次第に「山谷には仕事がある」という形で諸方に伝わり、山谷には職を求め労働者が集まっていくことになる。折しも時代は戦後復興から高度成長期であり、最盛期には300件の簡易宿泊施設に、20000人もの労働者が集まっていたという。だが、昭和後期から経済成長は緩やかになり、山谷に対する労働需要は減っていった。それに伴い、山谷には職にあぶれた人間が増えていくようになる。
「山谷には仕事がある」となれば寄せ場ビジネスが成立し、需要が減れば人があぶれる。それは理解できる。その過程で具体的に何があったのか、そこが「葛飾とのつながり」にあたるんではないか。
ホームレス自らを語る 第16回 東京大学経済学部卒です(後編)/大内信さん(86歳)は、兄の家を出てアパートに入ろうとするが、老人の独り暮らしで貸してくれずというのがきっかけの人。
不動産屋さんから「山谷に行けばドヤ(簡易宿泊所)があって、そこなら泊めてくれるよ」と教わり、それからは山谷のドヤで暮らすようになりました。それをきっかけにベースボールマガジン社も辞めました。山谷に住んで出版社勤務でもありませんからね。
それからは日雇い仕事で、糊口を凌ぎました。といっても、この身体で肉体労働は無理ですから、(東京)都が斡旋してくれる公園清掃とか、建築現場の片付けのような軽作業の日雇い労働です。こういう作業は毎日ありませんし、日当も安いから、とても食べるだけ稼げません。足りない分は長兄に援助してもらいました。
そのうちに65歳をすぎて、生活保護が受けられるようになり、台東区や足立区の生活保護施設を転々としてきました。こんどは新宿区の世話になろうかと考えて、一昨日からこっちに来てみたんです。
これは、山谷にしか高齢者の居場所がないという話。具体的には、保証人など諸々の制度の問題と、巨大な"void"でありつづけた場所の存在。興味があるのは後者。
訪問看護ステーションコスモス 山谷地域の概要
大正12年の関東大震災で木賃宿や長屋は大半が焼失した。
しかし、間もなく復興して、約5,000人の労働者が宿泊するようになった。
太平洋戦争後、戦災により焼け野原なった都内には被災者があふれ、とりわけ上野周辺に集中し。治安への影響を重視したGHQ(占領軍)当局は、東京都に被災者の援護を要請し山谷地域などにの宿泊施設(テント村)を作り、山谷地区旅館組合に委託した。テント村は間もなく本建築の簡宿泊に変わり、また、日本経済の復興により労働需要が増加した。(昭和28年には、約100軒の簡易宿所に約6,000人が宿泊していた。)
GHQと東京都は復興バラック地帯に指定し、戦前から続く簡易宿泊所のオーナーにテントを配布する。経営者の多くは山谷から避難していただろうから、テント支給は旅館組合が仲介した。それで経営者は山谷に戻り、ビジネスを再開したのである。
山谷地域におけるアパートの居住実態 200201018 中道純子 (PDF)
山谷地域には簡易アパートといわれる特有の居住形態が存在している。その定義は明確でないが、昭和 40 年度から山谷地域で行われている都営住宅特別割当の募集要項では、「多人数で共用する構造を主とする施設で、居室部分の面積が 1 人あたり 4.5 畳以下、台所・便所・風呂のいずれも専用していないか台所・便所の一方だけを専用しているもの」としている。
元々、東京市の市境に巨大な"void"があって、そこは東京大空襲で再び"void"になったということ。その"void"が高度成長で都市にのみこまれた。これがコンテクスト。山谷に逃げ込んだ被災者というのは、当然、若夫婦も子連れもいた。初期の簡易宿泊所街というのはそういう町並みだったのではないか。遠めに東京タワーでも拝めば「3丁目の夕日」そのまんま。
特集:TOPIC/山谷“下町の六本木”へ/日雇い労働者の街に世界中から… - FujiSankei Business i.
「一般客が増えているのにファストフード店が1軒も進出せず、早じまいの定食屋しか見当たらない。居酒屋や大衆食堂が多く、若い女性客や外国人客はコンビニで買い物をするしかなく困っている」。帰山さんが嘆くように、周辺には宿泊客がカネを落とす場所がない。
こんな歪つな風景と化したのは、子供持ちの夫婦を救済するという福祉の副作用ではないか。たぶん、若い夫婦には公営住宅が手当てされたのだろう。それは、町から見ると子持ち夫婦を町から隔離した、ということではないか。それが世間の空気もつくったのなら、空気に従って、人は居住地を選ぶ。そこから、「山谷の朝に葛飾とのつながりを思う」の断面が見えてくる、と思うのだな。
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