東京バーベキュー ~歩くひと、佇むひと~

 
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 永井荷風の「濹東綺譚」が、発表されたのは1937(昭和12)年のこと。玉の井を歩いたのをきっかけに読んでみた。ストーリー以上に興味深かったのは当時の風景描写。あわせて、木村荘八の挿画、ステキ。
 そこにあるのは、紛れもない昭和12年の郊外だということ。荷風自身もそのことを意図して玉の井を舞台に設定してる。具体的には、舞台のベースとして「古き良き風景を失いつつある東京郊外」があって、その郊外において期せずして発生してしまった「玉の井と呼ばれる都市」の物語なのであった。
 いまさら荷風の最高傑作の書評ってどうよ?なので、都市生活者が郊外の中の都市を味わうという複雑にネストされた関係に注目したく、物語に表現された風景に限定してレビューしてみる。
 今回は無駄に長いぞっと。
荷風の描く郊外の風景

 最初にざっとおさらい。荷風が玉の井を最初に訪れたのは『断腸亭日乗』によると1936(昭和11)年3月。そして4月22日、続けざまに『寺じまの記』を発表。翌年、1937(昭和12)年に濹東綺譚私家版、という流れ。舞台となった玉の井は、1918(大正7)年、1919年(大正8)年に、浅草の銘酒屋が移転してきて成立した私娼窟。

 わたくしは東京市中、古来名勝の地にして、震災の後新しき町が建てられて全く旧観を失った、その状況を描写したいがために、種田先生の潜伏する場所を、本所か深川か、もしくは浅草のはずれ、さなくば、それに接した旧郡部の陋巷に持っていくことにした。(濹東綺譚 p29)


 荷風の言いたいことは明白。玉の井は、震災でできた新しい町であり、昔の風景と断絶してるってこと。つまり『郊外』。ここに登場する風景は、大正を引きずった昭和11~12年の郊外風景ということになる。

玉の井前夜の風景

 わたくしはふと大正二、三年のころ、初て木造の白髯橋ができて、橋銭を取っていた時分のことを思返した。隅田川と中川との間にひろがっていた水田隴畝が、次第に埋められて町になり初めたのも、その頃からであろうか。しかし玉の井という町の名は、まだ耳にしなかった。(寺じまの記)

Tamanoi Map on 1917(T06)

 図は大正6年版東京郊外地圖。隅田川河畔の「鐘ケ淵紡績会社」は1887(明治20)年創業、隣接して「鐘ケ淵駅」が開設されたのは1902(明治35)年。荒川放水路の開削(1911、明治44)も既に始まってはいるけど、古綾瀬川がそのまま記されてる。そのため、向島・鐘ケ淵・堀切・綾瀬は一群の連続した田園である。辺り一面が水田で、そこに点在する百花園・白鬚祠・水神祠・多文寺。こりゃ確かに「古来名勝の地」である。

 1914(大正3)年に創架されているはずの白鬚橋は当地図には未記載。白鬚橋は民間が基金を募り設立した「白鬚橋株式会社」が建設(大正2年着工)した木橋で、1銭の通行料を徴収していたが、周囲にはまだ渡し舟も多く残っていて、影響は軽微かな。

 大正七、八年の頃、浅草観音堂裏手の境内が狭められ、広い道路が開かれるに際して、むかしからその辺に櫛比していた楊弓場銘酒屋のたぐいが悉く取払いを命ぜられ。現在でも京成バスの往復している大正道路の両側に処定めず店を移した。つづいて伝法院の横手や江川玉乗りの裏あたりからも追われて来るものが引きも切らず、大正道路は殆軒並銘酒屋になってしまい、通行人は白昼でも袖を引かれ帽子を奪われるようになったので、警察署の取締りが厳しくなり、車の通る表通から路地の内へと引込ませられた。(濹東綺譚 p70)


 浅草の道路拡張で銘酒屋が移転して来るのは大正7~8年なので、以上が玉の井前夜の風景っちゅうこと。

関東大震災と玉の井

 コツ爽雨歇みしが風猶烈し。空折々掻曇りて細雨烟の来るが如し。日将に午ならむとする時天地忽鳴動す。...。門外塵烟濛々殆咫尺を辨せず。児女鷄犬の声頻なり。塵烟は門外人家の瓦の雨下したるが為なり。予も亦徐に逃走の準備をなす。時に大地再び震動す。(断腸亭日乗、大正12年九月朔)



Tamanoi Map on 1925(T14)

 図は1925(大正14)年の東京市全図。玉ノ井駅の名称が見える。玉ノ井駅自体は、1902(明治35)年の東武鉄道開業時からあったが、当初の駅名は「白髭」と言い、震災後の1924年の営業再開に伴い、この駅名となった。震災後に「玉ノ井」が公共施設に用いられたということ、そのことが「玉の井」の隆盛を物語っているわけだ。実は、震災で壊滅的被害を受けた浅草から、さらに多くの銘酒屋が移転して来るんである。

 もうひとつ、目を引くのは、震災復興の一環として記されている明治通り・水戸街道の計画線。あわせて、白鬚橋は同年、東京府に買い取られ、震災復興事業の一環として現在の橋に架け替えられた。こうした関東大震災を契機とする急激な「郊外化」で変節しかかった風景こそ荷風の見た風景なのだ。

 なお、白鬚橋から東に延びる道路が通称「大正通り」。大正通りが玉の井駅を過ぎた辺りで二股に分かれる。その北に分岐した先を「いろは通り」と呼び、ここが玉の井私娼窟へのメインの入口になる。太平洋戦争以前は「いろは通り」南側が私娼街のメインだった。紫色のハッチが市街地で、市街化されてない部分は池の表示が多く、低湿地であることがわかる。

荷風の見た「玉の井」

Tamanoi Map on 1931(S06)

 図は1931(昭和6)年東京郊外地図。関東大震災以降、この時点までに起こったインフラの変化を以下に並べてみる。
  • 1922(大正11)年:(旧)四ツ木橋
  • 1924(大正13)年:玉の井駅再開
  • 1927(昭和2)年:東京地下鉄道浅草駅開業(初の地下鉄)
  • 1928(昭和3)年:京成白鬚線
  • 1930(昭和5)年:荒川放水路通水
  • 1931(昭和6)年:白鬚橋、明治通り開通、改正道路(水戸街道)
  • 1931(昭和6)年:東武鉄道浅草雷門駅開業、初めて隅田川を越える
  • 1932(昭和7)年:京成バス浅草雷門~立石開通
  • 1936(昭和11)年:京成白鬚線廃止


 一方、玉の井の側にも変化が起きる。関東大震災で浅草十二階下の銘酒街が被災し、移転先として亀戸天神裏と玉の井が選ばれた。そのため、震災直後の大正13年で260軒だった銘酒屋は、昭和5年には497軒(私娼901名)とほぼ倍増している(なお亀戸は432軒)。昭和11年に荷風は、私娼の総数1,500~1,600人と見積もっているので、これが正確だとすれば、この時期、さらに急激に発展したことになる。なお、玉の井の規模は昭和20年で487軒であるから、以後も一貫して維持されていたと考えてよいのではないか。

 加えて、関東大震災の罹災者が郊外のこの地に大量に移転している。インフラが整い、人口流入が始まる。まさに「郊外化」なのであって、『濹東綺譚』とは『新しき町が建てられて全く旧観を失った』風景の中で起きた物語なのだ。以上のことを踏まえて、『濹東綺譚』に登場する町の風景を読んでみる。

玉の井行き ~交通体系~

 一先電車で雷門まで往くと、丁度折よく来合わせたのは寺島玉の井としてある乗合自動車である。吾妻箸をわたり、広い道を左に折れて源森橋をわたり、真直に秋葉神社の前を過ぎて、また姑く行くと車は線路の踏切でとまった。(濹東綺譚 p30)


 主人公が玉の井に向かう道筋。既に東武鉄道浅草駅が開業しているが、大江Ⅷは乗合自動車を利用している。寺じまの記ではこう。

 門のない門の前を、吾妻橋の方へ少し行くと、左側の路端に乗合自動車の駐る知らせの棒が立っている。浅草郵便局の前で、細い横町への曲角で、人の込合う中でもその最も烈しく込合うところである。
 ここに亀戸、押上、玉の井、堀切、鐘ヶ淵、四木から新宿、金町などへ行く乗合自動車が駐る。(寺じまの記)


 荒川放水路の開削に呼応して(旧)四ツ木橋が架橋されたのは1922(大正11)年。この橋を渡った先、立石まで京成バスが通じるのは1932(昭和7)年。この頃には既に、更なる郊外、同じ葛飾区の新宿・金町まで通じていたのだろうか。

 雷門を出発した乗合自動車は、アサヒビールの金のウンコを臨みつつ吾妻橋を渡り、三ツ目通りを左折して源森橋を真直ぐ、向島2丁目交差点を左折して墨堤通りを右に、ちらりと向島料亭街がみえる。このまま直進すれば桜橋だけどここは歩行者専用橋だ。七福神を過ぎ言問団子を買いそびれ、白鬚神社の先でくるりと白鬚橋を見やってから、大正通りを進むここでも荷風の偏屈趣味が出ている。当時、既に寂れつつあったルートをあえて選択しているのだ。

 初め市中との交通は白鬚橋の方面一筋だけであったので、去年京成電車が運転を廃止する頃まではその停留場に近いところが一番賑であった。...。
 しかるに昭和五年の春都市復興際の執行せられた頃、吾妻橋から寺島町に至る一直線の道路が開かれ、市内電車は秋葉神社前まで、市営バスの往復はさらに延長して寺島町七丁目のはずれに車庫を設けるようになった。それと共に東武鉄道会社が盛場の西南に玉の井駅を設け。夜も十二時まで雷門から六銭で人を載せて来るに及び、町の形勢は裏と表と、全く一変するようになった。今まで一番わかりにくかった路地が、一番入りやすくなった代り、以前目貫といわれた処が、今では端れになったのである...
(寺じまの記)


 町の構造が逆転した理由は、明治通りの開通であり、東武鉄道の隅田川越え達成による玉ノ井駅の利便性向上であり、改正道路(水戸街道)が整備されたからだ。

改正道路

 わたくしは先刻茶を飲んだ家の女に教えられた改正道路というのを思返して、板塀に沿うて其方へ行って見ると、近年東京の町端れのいずこにも開かれている広い一直線の道路が走っていて、その片側に並んだ夜店の納簾と人通りとで、歩道は歩きにくいほど賑かである。沿道の商店からは蓄音機やラヂオの声のみならず、開店広告の笛太皷も聞える。盛に油の臭気を放っている屋台店の後には、円タクが列をなして帰りの客を待っている。(寺じまの記)


 『濹東綺譚』にも改正道路のことは出てくる。確かに賑やかな道路ではあるが、『円タクの輻輳と、夜店の賑いとを見るばかりで、巡査の派出所も共同便所もない』(濹東綺譚 p71)とさんざんの評価だ。けっ、あんなもん!、大正道路にはちゃんと『銀行、郵便局、湯屋、寄席、活動写真館、玉の井稲荷の如き』が残っているもんね、ほんと下衆!と見下すのである。実に「レトロ vs 新興」の風景対決なんである。

 でも、できたてのだだっ広い道路って、こういうよくわからない雑然とした広場化してしまうというのはよくわかる。現在だってそんな風景は郊外によく見られるし、逆にいうと、そういう風景の場所に向かって俺らは『郊外』と叫んだりするのだ。まあ、警察への届け出が厳しいから夜店でなく、無断巨大駐輪場になってしまうという差はあるけど。とにかく荷風もそのヴォイドっぽさが嫌だったのじゃないか。

 さて、乗合自動車は、ほどなく東武鉄道の踏切に差し掛かる。大江Ⅷは、寄席『玉の井館』や『満願稲荷』のあるバス停まで行かず、踏切前でふらりと降りてしまう。

踏切の裏町 ~宅地開発~

 踏切が開くのを待ちながら大江は周囲を観察する。『ところどころ草の生えた空き地』と低い家並のせいで、どの道も『見分のつかぬほど同じように見え』る。目の前で『貧家の子供が幾組となく群れをなして遊んでいる(濹東綺譚 p30)』。その捉えどころのない漠然とした感覚は、町の変に新しい部分に出くわすと感じる類いのものだろう。そんな風景は今だって、続々と生まれてる気がする。大江はそこから狭い横道に入ってみる。

 自転車も小脇に荷物をつけたものは、擦れちがう事が出来ないくらいな狭い道で、五、六歩行くごとに曲がっているが、両側とも割合に小綺麗な耳門のある借家が並んでいて、勤先からの帰りとも見える洋服の男や女が一人二人ずつ前後して歩いて行く。遊んでる犬を見ても首環に鑑札がつけてあって、さほど汚らしくもない。(濹東綺譚 p32)


 旧道の先の曲がった狭い道、小さいけどこざっぱりとした家々、行き交うサラリーマンとOL、ペットの犬。これって、当時の平均的な郊外居住の姿だ。目に見える風景はいわゆる宅地造成そのものなだ。そのことに気づけば、『見分のつかぬほど同じように見え』る風景の意味するものが、がらっと変わってくる。そう、紛れもなくそこは郊外、日本の標準的な"Suburb"でないかしらん。

古別荘と売貸地 ~不動産~

 裏町を抜けた大江Ⅷは玉の井停車場脇で古びた別荘を目にする。

 線路の左右に樹木の鬱然と生茂った広大な別荘らしいものがある。吾妻橋からここに来るまで、このように老樹の茂林をなした処は一箇所もない。いずれも久しく手入れをしないと見えて、はいのぼる蔓草の重さに、竹薮の竹の低くしなっている様や、溝際の生垣に夕顔の咲いたのが、いかにも風雅に思われてわたくしの歩みを引止めた。(濹東綺譚 p32)


 ここでも荷風、もとい大江は懐古趣味に浸るのだけど、それはともかく、こういう場所はある、今だって。それはさておき、鉄道脇で大江が目にしたもう一つの風景にも注目しよう。

 線路に沿うて売貸地の札を立てた広い草原が鉄橋のかかった土手際に達している。去年頃まで京成電車の往復していた線路の跡で、崩れかかった石段の上には取払われた玉の井停車場の跡が雑草に覆われて、こなたから見ると城址のような趣をなしている。(濹東綺譚 p33)


 跡地を囲う金網、"For Sale"、その下には「△△不動産 TEL 03-1234-5678」の文字。あるいは、道路拡幅で突然町なかにできてしまう不思議な空地。雑草、立入禁止の文字。空き地の片隅には粗大ゴミ。古い家の隣にそんな空き地が唐突にある「どっちつかずの風景」、これも俺らが「郊外」と呼ぶ特徴のひとつだ。

夏草の向こうの溝と路地

 大江は廃線跡の土手にのぼり、夏草の向こうを見やる。

 眼の下には遮るものもなく、今歩いてきた道と空地と新開の町とか低く見渡されるが、土手の向側は、トタン葺の陋屋が秩序もなく、端しもなく、ごたごたに建て込んだ間から湯屋の煙突が屹立して、その頂きに七、八日頃の夕月が懸かっている。(濹東綺譚 p33)


 湯屋の煙突の下に広がるトタン葺のシルエットこそ、目的の玉の井だった。そして、そこは、ドブと路地の世界だった。単純だけど美しい描写、俺的には最も好きな描写の一つ。

 溝際には塀とも目かくしともつかぬ板と葭簀とが立ててあって、青木や柾木のような植木の鉢が数知れず置並べてある。...。足の向く方へ、また十歩ばかりも歩いて、路地の分れる角へ来ると、また「ぬけられます。」という灯が見えるが、さて共処まで行って、今歩いて来た後方を顧ると、何処も彼処も一様の家造りと、一様の路地なので、自分の歩いた道は、どの路地であったのか、もう見分けがつかなくなる。おやおやと思って、後へ戻って見ると、同じような溝があって、同じような植木鉢が並べてある。しかしよく見ると、それは決して同じ路地ではない。(寺じまの記)


 毛細血管のように地をはうドブ、ドブに絡まる糸くずのような路地。これって、何のインフラが整備されるということもなく市街地になった風景だ。

Kafu's Tamanoi Map

 これは、玉の井を歩いたとき、濹東綺譚も登場する満願神社脇でみつけた、荷風がつくった地図。いく筋かのドブが見える。1925(大正14)年の東京市全図を見ると池が記載されている。湿った低い土地がなし崩し的に、「町」になってしまったのがよくわかる。もちろん、それはカフェという営みにとって、人の目を隠す、警察の追求を逃れるという意味では、合理的な都市構造であったわけだ。

 荷風が訪れた頃にはもう裏通りであった大正道路、その一本奥に流れる大きなドブ、大正道路から弧を描くように入り込む「賑本通り」、夜店と客待ちの車でごったがえす広場化した「改正道路」、廃線跡をさえ取り込んでしまうカフェ街。

 玉の井カフェ街とは、"郊外化"の流れから取り残されたが故に、よりラジカルに一足飛びに"都市化"した町なのだった。そしてここでも、都市から郊外を眺める荷風がいたのだった。

荷風以降、再び旅が始まる

 大正中期の道路拡幅で浅草千束から移転を強いられ、関東大震災の罹災で浅草十二階下から追われ、浅草での営業権を剥奪され、新たに許可のおりた「玉の井」(昭和5年、497軒)と「亀戸」(昭和5年、432軒)へ集団移転したカフェ。太平洋戦争まで一貫して同地で営業を続けるが、東京大空襲の被害を受け、再び郊外へ、旅が始まる。

 「亀戸」は東京大空襲以降、「新小岩」「東京パレス(小岩)」「立石」に分散した。「玉の井」は、隣接する「鳩の町」と「亀有」へ。「亀有」では玉の井の銘酒屋12軒が日立の社員寮だった建物を買い取り、昭和20年8月8日に営業を始める。8月8日といえば、まだ終戦前だ。駅前を流れる用水路に赤い太鼓橋が懸かっていて、その橋を渡った先がカフェ街になった。その先には辺り一面、水田が広がっていた。

 この頃の"郊外化"は、いろんなものを引き連れて行くのである。
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